「うみねこのなく頃に」に見る若者のモラトリアム
「うみねこ」に登場する多くの若者(子世代etc)は、青年期特有の正義心、自己アイデンティティの探索、そして純粋がゆえの無責任さにあふれている。
ここでは、作品の主人公である「戦人」を例に、「うみねこ」と「若者のモラトリアム」を論じる。
※本記事はEP1-8まで読み終えた個人の、印象論的な感想で書かれています
※本記事には大量のネタバレが含まれています
――「モラトリアム」の定義(以下引用)
・モラトリアムとは?
発達心理学では、知的・肉体的には一人前に達していながら、なお社会人としての義務と責任の遂行を「猶予されている期間」、また、そういう心理状態に留まっている期間をさします。
「豊かな社会に育ち組織に属さない青年」を規定した小此木啓吾の造語で、現代人の特徴、特に現代の若者気質をあらわす言葉として一世を風靡しました。
・一口にモラトリアムといっても
E=H=エリクソンが提唱した「モラトリアム」という概念は、発達心理学では基礎課程で勉強するものですが、エリクソン後、さまざまな学説が派生しています。小此木の「モラトリアム人間」もそのひとつです。「モラトリアム人間」は、「社会的責任を負った大人になるのをあえて踏み留まろうとする青年」「大人になるのを拒む青年心理」などの意味合いで、責任回避というマイナスイメージが前面に強く出ています。
しかし、エリクソンは「モラトリアム」という概念そのものにそうしたことを強調したのではなく、むしろ「同一性拡散」(identity diffusion)という言葉で問題にしています。日本では一般に、小此木説の強い影響下で使われている言葉といっていいでしょう。
「10分でわかるカタカナ語 第28回モラトリアム」三省堂編修所
三省堂 辞書ウェブ編集部によることばの壺 2005年12月8日
右代宮戦人の言動には、episode1から一貫して、「その場に合わせた調子の良さ」が見られる(真里亜の将来に対しての発言、紗音への態度など)。
EP2において、癇癪を起こす真里亜を「可愛いじゃないですか」と言い、楼座に「可愛いなんて言葉でごまかさないで」と激昂された場面は印象的だ。
右代宮戦人には「軸」が存在しないように見られる。
常に、その場しのぎ的に、相手や雰囲気に一番「好ましい」態度を取っている。
ゆえに、行動にも言動にも一貫性があまり見られない(ように感じてしまう)。
特に顕著なのは、EP5ラストで「罪」に気づいてからのEP6、そしてそれ以降だろう。
ベアトを救えなかった、だから新しいベアトを自分で作る。
一方で、EP8では「お前にとって一番幸せなものを見せたい」と言わんばかりに、縁寿を嘘の六軒島へ連れていく。
彼は「ベアトリーチェ(ヤス)」への罪を償いたい、と思っているはずだ。
それは、未来に置き去りにした「妹」を見捨てるという選択肢に他ならない。
しかし彼は、その矛盾にも気付かず「妹」にも「良い兄」であろうとする。
「良い顔」をしようとする。
古戸ヱリカに対しても同様だ。
EP5中盤ではライバル的に闘っておきながら、EP6終盤以降は彼女を「敵」と断定した扱いをした。
しかし、EP8の終盤では彼女も「黄金郷」へ招くという態度に転じる。
読み手側は、彼の真意がわからない。
その場だけの良い顔、軽薄で軽率な態度を繰り返しているから。
この、「その場に合わせてしまう」調子の良さこそ、「若者モラトリアム」的であるといえる。
作中を通し、彼は誰とも、本音で、真意で、「向き合っていない」。
EP1冒頭で将来に関して「自分探しの旅でもするかな」と語っている通り、作中の彼は「自分探し」の最中なのだ、と考えることができる。
右代宮戦人はまさに、「大人になるのを拒む青年心理」「豊かな社会に育ち組織に属さない青年」なのだ。
だからこそ、EP8魔法エンドにおける「十八」の存在が重要になる。
六軒島事件のち、戦人は記憶を失い、本当に「空っぽ」の人間となる。
そうなって初めて、「彼」は「右代宮戦人」と向き合う事をはじめるのだ。
同時に、戦人が関わってきたすべての人間――ヤスを含む、六軒島の人物達とも。
「自分」と向き合い、「現実」を直視し。
そして彼は、寿ゆかりとの接触を決意する。
戦人から十八への変化は、彼が「大人」になった事を指していると読むことができる。
モラトリアム期間を抜け、現実の責任を直視できるようになった彼は、寿ゆかりとの邂逅を通し、福音の家を訪ねる。
そして、今度こそ本当に、六軒島の全員と、ひとりの「大人」として「再会」するのだ。
この視点に立つと、「うみねこ」は、「右代宮戦人」という一人の青年が、大人になるまでの「自分探しの旅」の作品だ、と読むことができる。